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えいちゃーろぐ!

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「ぽきたw 魔剤ンゴ!?」を文法的に考察する

【原文】

ぽきたw 魔剤ンゴ!? ありえん良さみが深いw
二郎からのセイクで優勝せえへん? そり!そりすぎてソリになったw
や、漏れのモタクと化したことのNASA✋ 
そりでわ、無限に練りをしまつ
ぽやしみ〜

 

この状態では、解読するのは難しい。そこで、"オタク的仮名遣い"を"現代仮名遣い"に修正し、「ンゴ」等の意味を持たない文字列を消して考える。

 

 

起きたw 魔剤!? ありえない良さみが深いw
二郎からのセイクで優勝しない? それ!それすぎてソリになったw
いや、おれのオタクと化したことの無さ✋
それでは、無限に練りをします
おやすみ〜

さらに、用語を現代語へと訳していく。

起きたw 本当!? ありえないほど良さの程度が甚だしいw
ラーメン二郎を食べてからの酒で幸せな気分にならない? それ! それすぎてソリになったw
いや、おれのオタクと化したことの無さ✋
それでは、無限に寝ます
おやすみ〜

 

文末が形容詞で結ばれる場合は形容詞で訳し、体言止めをそのまま残すなど、原文の雰囲気を殺さないように訳したつもりである。また、「それ」などの、複数の現代語にまたがるニュアンスを持った用語は、あえて翻訳しなかった。「ハッキリとそれに対応する日本語」が存在しない英単語があるように、ハッキリと日本語に対応しない日本語も存在するのである。

 

 

それでは、一文ずつ文法を考察していく。

 

 

 「ぽきたw」

「起きた」の頭にpの発音が付いた形。定説では、「パ行」は一時的に日本語から抹消されたのち、ポルトガルが東アジアに進出した16世紀以降、外来語の発音を再現するために再び用いられるようになり、江戸時代に定着したものとされる。すなわち、擬態語などを除けば、日本古来の言葉に「パ行」が使われることは、まず無いという。以上より、「ぽきた」は外来語を意識した活用である、と考えるのが妥当であろう。アルファベットの"w"が使用されている点もまた、外来語の影響を強く受けていると言えよう。

 

 

「魔剤ンゴ!?」

「本当!?」の変化形。「ンゴ」は接尾辞のようなものであり、それ自体に意味を持たないうえ、何らかの言葉を呼び出す働きもない。

「魔剤」が「マジ」から転じた言葉であるのは言うまでもないが、その「マジ」の起源は江戸時代後期。「真面目」から「マジ」へと変化したのだという。先ほどの「ぽきた」のパ行も江戸時代に定着したものであることを踏まえると、「ぽきたw 魔剤ンゴ!?」は、"外来の言葉"と"日本独自の言葉"を織り交ぜた、江戸情緒あふれる一文である。

 

 

「ありえん良さみが深いw」

「ありえん」は「ありえぬ」の変化。これは「ありえん(形容詞)→良さみ(名詞) が(格助詞) 深い(形容詞)」という、形容詞のかかった主語をさらに別の形容詞で説明する構文となっている。「ありえん」は「良さみ」、すなわち「良さの程度」を強調しているのだから、「ありえないほど良い」と捉えるのが妥当である。「深い」もまた、良さの「程度の甚だしさ」を表していると考えられる。

ここで問題となるのが、「良さみ」という主語である。「良さ」は、それ自体で完結した名詞である。それに「み」が付くとはどういうことか?

「さ」は、全ての形容詞・形容動詞の語幹、及び一部の程度性名詞、並びに一部の程度性副詞の語幹に付くことができ、外的な属性又は程度を表す。

「み」は、限られた形容詞とわずかな形容動詞に付き、そのものの内的な属性又はその場所・位置を表す。

簡単に言えば、「さ」は外的・客観的な、「み」は内的・主観的な要素を表すということである。

すなわち、こういうことだ。「良さ」のみでは、客観的事実を述べたに過ぎない。ここであえて文法を無視して「み」を付け加えることで、主観的な「良さ」のニュアンスをも得る。「良さみ」とは、「客観的に考えても『良い』ものであり、それは自分の主観においても『良い』。絶対的に『良い』ものである」という、説得力のみならず強い感情の潮流を感じさせる表現なのである。

 

 

 二郎からのセイクで優勝せえへん?

「二郎」。これは言わずと知れた、ラーメン二郎を指す。

「セイク」は酒を指す。酒のローマ字表記である"Sake"を英語として発音したものと考えられるが、Sakeは「〜のための」という不可算名詞としての意味を持つ英単語である。Weblioによるとこれは「高校2年以上の水準」の単語であり、セイクを飲む年齢の人たちにとっては、おそらく当たり前のように知っている単語であろう。つまり、「各々がSakeという単語の本来の意味を知りつつも、あえて『酒』の隠語として用いる」という、ある種のエスプリを感じさせる言葉遊びである。

「優勝」という言葉は、非常に解釈が難しい。が、後述の「そり」の現代語訳である「それ」に比べれば、用法も限定的であり、翻訳可能な域である。

もちろん「優勝」したからといって、何らかの大会があったわけではなく、強いて言えば、それは精神的な満足感、優越感、多幸感……こういった類のものなのである。

 

 

「そり! そりすぎてソリになったw」

今回の考察において最大の不条理さを誇る一文である。

まずは、「そり」の変化前の形態と思われる、「それ」という語の定義から考える。本来は中称(少し離れた場所にあること)の指示代名詞である「それ」。しかし近年では、もはや「それ」自体に"同意"の意味が含まれるようになった。英語では"I agree"といったところか。

次に、「それ」→「そり」という変化について考える。調査していくと、江戸時代から主に九州地方で用いられている「そりばってん」という方言に行き着く。これは「そうだけれども」という意味を持ち、「けれども」に該当する語が「ばってん」であることから考えるに、「そり」が「そうだ」に該当し、今回の文章に近い意味を持つ。

しかし、ここでもう一つ、古典文法的に解釈した自説を提唱したい。

「それ」という言葉は、はじめ文中に存在していた係助詞「こそ」による"係結び"で、終止形の動詞「そり」が已然形「それ」へと変化したため生まれた、というものだ。つまり、「そり」はラ行変格活用の動詞であり、元々終止形として用いられていたその動詞を、我々が慣習的に「こそ」とセットで扱ううちに、已然形「それ」として用いるようになったという説である。

その後「こそ」が消失し、「それ」単体で代名詞的な意味を獲得するようになったものの、2016年、古典文化の復興を願うオタクたちによって、再び「そり」という動詞原型で用いられるようになった……という話。

このように解釈することで、次の「そりすぎて」も説明がつく。

「すぎる」は、「接尾語的な用法もある動詞」であり(新明解より)、動詞の連用形の後に付いて、複合動詞を形成する。「そり」をラ行変格活用の動詞と仮定すれば、「すぎる」に接続するための連用形も、終止形と同じく「そり」であり、「そりすぎて」が文法的に正しくなるのである。

「ソリになった」はそのまま、ソリになったのであろう。ここに文法的な疑問点は存在しない。

 

 

 

「や、漏れのモタクと化したことのNASA✋」

「漏れ」「NASA」の二語に関しては、それぞれ「俺」「無さ」の、よく知られた別表記である。

「や」は、「いや」のiが発音されないもの。

似た事例を調べていくと、kの例(knowなど)や、hの例(honestなど)はすぐに見つかるが、iが発音されない例は見当たらない。逆に「漏れ」「モタク」などに関して、mが付随される発音例も見当たらない。

そこで、発音的な解釈ではなく、文法的な解釈へと昇華させてみる。何かしら特殊な形の文章を表記する際、「文頭が母音の場合はそれが省略され、文中のoが全てmoへと変化する」という"オタク文法"が存在するのかもしれない。この文章の特殊性は何処にあるか? というと、「NASA(無さ)」で文を締めくくるという「体言止め」である。体言止めをする際、オタクはこのような文法に従うのであろう。

 

 

「そりでわ、無限に練りをしまつ」

「そりでわ」は、「それでは」に前述の「そり」が適用され、さらに「は」を「わ」に変えたものである。「そり」は既に解説したので、「わ」について考えてみる。

古代では、「川」を「かは」と表記し「kaha」と発音しており、「は」を「wa」と読めるようになったのは10~11世紀以降である。その後このような"表記と発音とが一致しない時代"が長く続き、昭和21年になって、政府が「『は』は、副助詞として用いられる時のみ『wa』と発音され、それ以外では『ha』である」と定めた。

ここで前述の事項を思い出そう。オタクは古典文化の復興を願っている……と。

「そりでは」と書いて「soridewa」と読むのは、10世紀以前の「表記と発音とが一致する日本語」とはかけ離れたものであり、古典文化を至上とする彼らにとっては、あまりにも「今風」である。世間的には「でわ」が誤用とされるが、世間が間違っているだけである。自らの正しさを示すため、あえて誤用のように思える表記法を採用しているのだ。

「無限に練りをしまつ」について。この文章は一般的に「無限に寝ます」の意味で捉えられているが、「ねり」には様々な意味がある。「ねりをする」で「大便をする」の隠語となるし、「練」を「ねりす」と読むことで「賭博をする」の意味にもなる。これらは全て"隠語"であるため、「寝る」の意味で用いられる「練りをする」もまた、近いベクトルの新しい隠語であると考えるのが自然であろう。

「します」が「しまつ」に変化したのは、ローマ字的に解釈すれば「su」が「tsu」に変わったのであるが、やはりこれも発音的解釈よりも文法的な解釈を加えたほうが分かりやすい。この一文は、唯一の「丁寧語文」である。オタク文法では敬語を使用する際、文末の文字がア行またはサ行であれば、tを付けるルールがあると考えられる。文法とは、長い年月の中で、その言語の用いられる界隈で合理化・最適化されたものである。それは「である」の論理に立っており、深い意味は存在しないのだ。

 

 

 「ぽやしみ〜」

「ぽ」は、「ぽきた」と同様、外来語を由来とする発音である。

「す」が「し」に変化しているのは何故であるか。これも文法事項、と言ってしまえばそれまでであるが、この一文に大した特殊性はなく、文法の一言で片付けてしまうのはナンセンスだろう。

ここで私は、ある事実に気がつく。Twitterを観察していると、「おやすみ〜」の意味で「ぽや〜」とだけ言う人も一定数いるのである。

こう考えてはどうだろうか。「眠い」「もう寝たい」といったニュアンスを持つ形容詞「ぽやし」に、前述の内的・主観的な「み」を付けたのが「ぽやしみ」である……と。

形容詞で「〜〜し」という活用をするのは、現代では見当たらない。現代の形容詞は「語幹+かろ・かっ・く・う・い・い・けれ」であり、「語幹+く・く・・き・けれ」は古語的な用法である。しかしこれは、「オタクが古典文化の復興を願っている」という仮説を、さらに強固なものにする証拠となるのではないか。

何らかの感情が現れた時、我々は形容詞を語幹のみで使う傾向がある。重いものを持った時は「重!」と言うし、痛い時は「痛!」と言う。眠くて眠くて、もうどうにもならない時は、「ぽや!」とでも言うのだろう。眠気が内的・主観的なものであることを考えると、最後に「み」を付けるのも妥当である。

 

 

以上より、「ぽきたw 魔剤ンゴ!?」に始まるこの文字列は、古典的要素をベースとしつつ、江戸や明治などの近現代の言葉、さらには外来語の発音すらも取り入れた、構文ごとに複雑な文法を持つ美しい言語体系を表しているのである。